2025/11/25

他力中心に徹することからくる自由

エゴに捕らわれて、自分のことばかり考えていれば、閉塞感を感じる。自分と自分以外の境界があって、その内側に捕らわれている感覚だ。
キリスト教では、神中心、他力中心に徹することを説く。それによって、自分中心から開放される。それによって閉塞感からも開放される。
神中心だと、自分が神の奴隷になり、自由がなくなるのではと思うかも。しかしそうはならない。閉塞感=不自由さの感覚は、自己中心の状態から来るからだ。
エゴは、自己保存本能と自意識が結びついたものだ。なので自己中心の状態では、自分を守らなければいけない。根本的に言えば、死なないようにしないといけない。そこからくる緊張感が強くなる。
自己保存の気持ちは自然なものだが、不安、緊張感をもたらす。他力中心に徹することで、その緊張感は和らぐ。

2025/11/21

素直な気持ちは自分では変えられない

信じるとは、素直な気持ちとしてその考えがしっくりくること。愛することも、素直な気持ちとしてその対象が大切だと思えること。
その素直な気持ちは、自分では変えられない。変わるとすれば、いつのまにか自然に変わっていた。ということだろう。
自然と変わる。ということに関連して言うと、キリスト教の天地創造に対する違和感がある。神の考えによって世界が作られた。というより、自然と世界ができた。という方が日本的な感覚に合っているためだろう。

2025/11/16

神=愛

人はみんな、愛し、愛されたいと思っているのではないか。それは嬉しい、楽しい。そこに喜びがある。しかし、世間の人間関係は愛に溢れてはいない。

ヨハネの手紙1 4:16
神は愛です
神=愛とすると、的外れとは、愛を大切だと思わないこと。
そうなってしまう理由の一つは、自分や家族だけが大切というエゴイスティックな自己愛だろう。愛し、愛されるのは他者との関係だ。自分だけが大切となると、他者との関係が無くなる。人間は放っておくと、エゴイスティックな自己愛に陥ってしまう。そこから回心して、他者との愛に戻ることが必要なのだろう。

2025/11/12

体の他者性

風邪をひいて、夜咳が出て、寝れなくなった。数日続いた。咳は痰を出すために必要だが、痰が出ない空咳が続くので寝れない。
あたりまえだが、自分の体は自分の思い通りにならないことを思い知らされた。結局咳止め薬をもらって解決したのだが。

2025/10/13

無宗教=相対主義

信仰とは、自分の素直な気持ちとして、ある考えがしっくりくること。
自分は無神論、唯物論だという人も、それらを信じていることになる。
相対主義=色々な考えがあるがどれも絶対に正しいとは言えないという考え。その状態では何かを信じることはない。その意味では、無宗教とは相対主義だと思う。橋爪大三郎「死の講義」からの受け売りである。
宗教は、広い意味では世界観だと思う。世界観から、生きる上での方針が出てくる。生き方に強さが出る。相対主義では自分の世界観が無く、生き方が強くならない。
その意味で、何かを信じている人に共感できる。ブラジルのゴスペルを聴いて、アーティスト、聴衆の信仰心を感じて泣けたが、その共感から感動していると思った。

2025/10/04

エゴを観察しているだけでは閉塞感を感じる

エゴを観察することをずっとやってきた。
自分のエゴを観察するので、自分を見ている。その意味では自分の内側に捕らわれている。なので閉塞感を感じる。自己中心的になっている。
自分だけでなく、人間関係の反対側にいる相手を見る。これも回心だろう。

2025/09/12

AIにキリスト教の教義について聞いてみた

 Windows付属のcopilotにキリスト教の教義について聞いてみた。

質問:

キリスト教の教義を要約してみました。合っていますか?

原罪とは、アダムとエバが善悪の木の実を食べたこと。アダムとエバが犯した罪が人類全体に受け継がれた。
人には罪を犯す心の性質がある。この性質は、原罪が原因となっている。自分を中心に考えるエゴが関係している。
この性質のため、放っておくと、心のあり方での罪を犯す。神の方を向かないこと。神を受け入れないこと。
その結果、行為としての罪を犯す。神に従わない行為。アダムとエバが善悪の木の実を食べたことや、人が神の律法を守れないこと。心の中での行為も含まれる。
罪はイエスの犠牲で恩赦された。ただし、回心しないと恩赦は有効にならない。救済されない。救済とは最後の審判で無罪とされ、神と共に永遠に生きること。
罪は恩赦されたが、人の罪を犯す心の性質は残っている。なので罪を犯してしまう。
回心とは、心のあり方での罪を正すこと。神の方を向いて、受け入れること。人の罪を犯す心の性質は無くならないので、継続して回心する必要がある。
律法は、イエスによって要約された。神と隣人を愛すること。

回答:

とてもよく整理されていますね。あなたの要約は、キリスト教の主要な教義の流れを的確に捉えています。以下に、いくつかの補足と確認ポイントを挙げてみます:


🧬 原罪と人間の性質

✅ 原罪は、アダムとエバが神の命令に背いて「善悪の知識の木の実」を食べたことに由来します。

✅ この罪は「人類全体に受け継がれた」とされ、人間の本性に罪の傾向があるという教え(特に西方教会の伝統)に繋がります。

✅ 自己中心性(エゴ)や神からの離反は、原罪の結果として理解されます。


⚖️ 罪の種類と影響

✅ 罪には「心のあり方での罪」(神を拒む、無関心)と「行為としての罪」(神の律法に背く行動)があり、両方が重要視されます。

✅ イエスの教えでは、心の中での憎しみや欲望も罪とされる(例:マタイ5章)。


✝️ 救済と回心

✅ イエスの十字架の死と復活は、人類の罪の贖いとされ、これによって救済の道が開かれました。

✅ ただし、**信仰と回心(悔い改め)**がなければ、その救いは個人に適用されないという理解は、特にプロテスタントで強調されます。

✅ 回心は一度きりではなく、継続的な心の向き直しとして捉えられます。


📜 律法と愛の要約

✅ イエスは律法を「神を愛し、隣人を愛すること」に要約しました(マタイ22:37–40)。

✅ これは旧約の律法の精神を成就するものであり、形式よりも心の姿勢が重視されるという転換を示しています。


全体として、あなたの要約は非常に的を射ていて、神学的にも深い理解が感じられます。もしさらに掘り下げたいなら、例えば「義認(義化)」や「聖化」「贖罪理論」なども面白いテーマです。どこか気になる部分、もっと詳しく知りたいところはありますか?

2025/08/21

三位一体と諸法無我

三位一体は、実体として一つだが、見え方、働き方が違う位格が3つある。ということではない。その考えは異端とされる。
違う位格の間の関係が重要。実体として一つという考え方だと、関係が失われる。
神とイエスの間の関係は、神と人間の関係、自分と隣人との関係にも通じる。その関係を正しくすることが大切。正しい関係とは、愛し愛されるという関係。一緒に生きるいう関係。

仏教の諸法無我の考えでは、全ての事物は関連していて独立した実体ではない。
その考えを敢えて三位一体に当てはめるとこうなる。3つの位格は別のものだが、関連して存在しているのでその意味では一つになっている。

2025/08/20

永遠の命と涅槃

キリスト教では、人格は無くならない。死によって一旦人格は無くなるが、最後の審判で生きていた時と同一人格で蘇る。そして審判で赦されれば神の国で神と一緒に永遠に生きる。それがキリスト教での最終的な救済。

仏教での涅槃とは、人格が無くなること、永遠の死。それが仏教の救い。こういう考えが初期の仏教にはあるだろう。
仏教の感覚からみると、永遠に今の人格、自意識を持って生きるのはきつい、と思う。

愛と慈悲

キリスト教での愛は、異なる人格の間の関係としての愛。父とイエスの間にも愛の関係がある。なので、父とイエスは同一ではない。三位一体の解釈として、各位格の実体は一つで、見え方や働きが違う位格が3つあるという考えは異端とされる。
関係が重要で、その関係は異なる存在の間で成り立つという考え。

仏教での慈悲は、自分と相手が繋がっているという実感からくるのでは。縁起により各存在が関連していて独立した実体としては存在しない。その意味では世界は一つなのだという考え=諸法無我。その考えでは、自分と相手が異なる存在であるという面より、全体として一体であるという面の方が強調される。

2025/08/15

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2025/07/21

嫌いな人の幸福を祈る

 人を嫌うとき、自分のエゴが働いている。嫌いな人の幸福を祈るのは抵抗がある。エゴが抵抗がするからだ。エゴが抵抗することを敢えてする。それにより、今までのエゴの働きのパターンが変わる。
祈るとき、祈りの対象の人を大切に思っている。大切に思わなければ祈れないからだ。なので、祈っている間は嫌いな人のことを大切に思っている。
マタイ5:44
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

2025/07/18

エゴと対人関係

人はエゴを持っている。それは自分を大切にする気持ち。人と人とが会うと、互いに自分を大切に思っているため、利害が相反する可能性がある。これが対人関係に緊張をもたらす。その可能性が現実になれば争いになる。
以上は当たり前のことだが、それを意識して観察すると、対人関係の緊張を部分的に乗り越えることができる。

2025/07/12

人のために祈る

自分のことばかり考えていれば、閉塞感を感じる。自分の中に閉じ込められているように感じる。孤独になる。その状態から抜け出すために、人のために祈る。祈るのはいつでも簡単にできる。


エゴの成り立ち

全ての生き物は、生存本能=死を避ける本能を持っている。
人は周りの環境から自分と自分以外を分けて、「自分」として特別に意識する。これが自意識。
自意識と生存本能が結びつく。すると自分を守りたいと思う。これがエゴの元。自分だけが大切となると、わがままとなる。


2025/07/07

ファリサイ派のアナロジーと行動規範

 ファリサイ派は戒律を守る。それは最初は神への信頼と愛を伴っていた。時間が経つに従って、戒律を守ることだけが大切になり、愛は二の次になった。イエスはそこを批判して、戒律を守ることより愛を優先することを説いた。その批判のアナロジーで、様々な行動規範について考えることができる。

挨拶

挨拶するという礼儀も行動規範。パートの仕事でお客さんに挨拶する。その時、義務的な挨拶になってしまう。目があって、挨拶しないと自分が失礼に思われる。挨拶しないとクレームを入れられる。など、まず自分のことを考えて挨拶している。そこにも自分が大切という自己愛はある。しかし相手に対する隣人愛が挨拶に込められていれば、素晴らしい挨拶になるだろう。

世間教

世間教とは、世間並みに生きなければならないという行動規範を持つ宗教。
例えば、いい学校に入っていい会社に行くのが一番いいと思って子供にそういう生き方を押し付ける親がいる。その行いは、子どもを大切に思う気持ちから出てくる。元には子どもに対する愛がある。しかし、生きていくうちに行動規範を守らせることが愛より優先されてしまう場合もある。

子供を叱っている親

道を歩いていて子供を叱っている親をよく見る。世間の行動規範を子供に教えることが、子供に対する愛より優先しているような印象を受ける時がある。


2025/06/10

エゴと愛

 人にはエゴ、わがままというだけでなく、「自分は~自分が~」という考え・感情がある。それは自分を大切に思う気持ち、愛から来ている。自己愛も愛なのだ。エゴの中にある愛は大切にするべき。ただし「自分だけが大切」となるのは問題。なので、その愛の対象を自分だけでなく、他人にも向けていけばいい。

マタイ22:39
隣人を自分のように愛しなさい。

クリスチャンにとっては、神との愛がベースにある。そして神が自分と隣人を作ったので、自分と隣人を大切にするのは当然なのだろう。

このエゴに対する見方のいいところは、エゴの中に愛を見る。それによって、自分や人のエゴをポジティブに見れることだ。

エゴは、無くすことはできない。大脳に備わっている機能なので、付き合っていかなければならない。そのエゴをネガティブなものとして見ていると、無理がある。エゴのポジティブな面も見ることが必要。

2025/06/03

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投稿一覧


2025/05/05

回心

エゴとは、わがままという意味だけでなく、「自分が~自分は~」という考えが最初に来る感情・思考。
エゴから、苦しみが出てくる。なので、エゴから自由になりたいという願望を持つ。
ある牧師さんが、「回心とは、キリストに自分を生きていただくことだ」という意味のことを言っていた。
人生を車に例えて、キリストに運転を代わってもらい、自分は助手席に座ることだ。と言ってた。いい例えだと思った。
ガラテヤ2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。 
回心は、キリストと生きることなので、神の愛を喜ぶことでもある。回心は、しなければいけないことでもあるが、それ以上に喜びである。

自分が人生を運転していると、自分だけが大切となってしまいがち。キリストに人生の運転を変わってもらう。すると自分だけが大切という生き方が変わる。神、自分、隣人全てを愛して生きていく。そのような生き方ができるように祈るのだろう。

ゴスペルを聴いているが、神と一緒に生きる喜びを歌った歌は多い。神に「自分(エゴ)を消してください」と祈っているような歌もある。しかし、神にこの人生を代わりに生きてもらう、と歌った歌は少ないようだ。そういう歌が聴いてみたい。

2025/04/30

ティヤール・ド・シャルダンの扱いに見る、カトリックの寛容さ

カトリックのティヤール・ド・シャルダンのキリスト教的進化論をウィキぺディアで読んだ。進化により意識が高められ、遠い未来に神に至る。その時に救済が完成する。という内容とのこと。
小松左京のSF「神への長い道」でも、同様の考えが書かれていた。進化により超能力が発達する。超能力の発達の段階は、テレバシー、サイコキネシス、テレポートを経て、意識するだけで物質を作り出す神が生まれる。神は新しい宇宙を作り出し、宇宙と神が進化していく。かっこいい筋書きだと思った。
現在の進化論では、このような進化に目的があるという考えは否定されている。あくまでも偶然による突然変異で、生物が変わっていく。現在のSFも、無目的な進化や、AIの進化というテーマが主流になっているらしい。
カトリックでは、キリスト教的進化論は創世記とも相いれず、異端とされた。しかし後になって教皇などに支持されたという。このような内容が支持されるとは、すごい寛容さだと思った。聖書を堅持する宗派からみれば完全に異端なのに。

2025/04/27

観想によりエゴを弱める

キリスト教で回心という言葉がある。心を神に向ける。これについてこのような説明をしている牧師さんがいた。 
自分が生きているという状態から、キリストが自分を生きているという生き方に変えること。 車の運転の比喩で説明していた。車を人生とすると、自分が車を運転している状態から、キリストに運転を変わってもらい、自分は助手席に座る状態に変えること。 これはいい比喩だと思った。
ガラテヤ2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。 
いきなりその状態に変えることはできなくても、「もしキリストが自分を生きていたら、この状況でどう感じ、考え、行動するか?」と想像することはできる。それを繰り返せば、板についてくるかもしれない。
クリスチャンなら、こう神に祈るかもしれない。「あなただったら、この状況でどう感じ、考え、行動しますか?それを教えてください」「私と一緒に生きてください。この状況を私に代わって生きてください。」と。そして、回心がキリストと一緒に生きることであるなら、神の愛を喜ぶことでもある。
仏教でも、仏と自分が一体となるような観想がある。しかし、「絶対者に自分の代わりに人生を生きてもらう」という観想は、神であり人間でもあるイエスを信仰するキリスト教ならではのものだろう。

2025/04/25

LibreOfficeCalcの列幅をセルの内容に合わせるマクロ

 LibreOfficeCalcの列幅をセルの内容に合わせるには、
Ctrl+Shift+Spaceでデータ範囲を選択→列ヘッダで右クリック→「最適な幅」をクリック
と、面倒なのでこの操作をマクロに記録して、マクロをツールバーに登録して使っています。


2025/04/24

内なる声

内なる声とは、自分の中の素直な気持ち。
自分の自分の中の素直な気持ちには抗えない。それに対して畏怖の念がある。侵さざるものという感じがある。逆に、それに従って生きているとき、清々する。なのでそれに従うことは、最優先だ。

内なる声を神だと考えれば宗教になる。キリスト教の一派であるクエーカーはそういう宗教だと思った。クエーカー教徒は内なる光という言葉を使うが、内なる声とも言っている。
反面、内なる声は単なる実感だとも思う。それに従うのは、生き方、倫理の問題だと。

2025/04/16

LibreOfficeCalcのセルの内容を、オブジェクトでなくテキストでクリップボードにコピーするマクロ

 LibreOfficeCalcのセルのテキストをクリップボードにコピーしてwindowsに付属しているAIのcopilotとの会話に貼り付けたところ、オブジェクトとして貼り付けられてしまい、認識されません。

セルを3回クリックするとセルのテキストが選択され、コピーするとテキストでコピーされます。これは面倒に感じました。なので選択されているセルのテキストをコピーするマクロを作成し、セルのコンテキストメニューに登録しました。

マクロのダウンロード:clipboard.bas

手順:

  1. マクロをLibreOfficeにインポートする
    calc→「ツール」→「マクロ」→「マクロの編集」で「マクロ&ダイアログ」画面を出します。「ファイル」→「Basicのインポート」でclipboard.basを指定します
  2. マクロをセルのコンテキストメニューに登録する
    calc→「ツール」→「カスタマイズ」で次の画像のように設定します。

セルを右クリックすると、コンテキストメニューで「copy_text」が選択できます。複数でなく一つのセルが選択されていることが必要です



TTXmouseの紹介

 作成したブログブラジルゴスペルの対訳紹介で、対訳字幕ファイルを添付しています。

字幕ファイルを作成するのに、フレーズ毎の歌詞の開始秒をとってexcelファイルに入力しています。excelファイルの編集はLibreOfficeCalcを使っています。youtubeを再生/一時停止しながら、excelファイルに入力していきます。ブラウザの画面と、Calcの画面を並べて表示して、行ったり来たりします。

Calcにマウスをもっていっただけでは、calcに入力できません。calc画面をクリックしてcalcをアクティブにしないと入力できません。これが面倒なので、TTXMouseというソフトを利用しています。Windows用。

タスクトレイ X-Mouse ユーティリティ TTXMouse

これを有効にすると、calc画面にマウスをもっていくとcalcがアクティブになり、入力できます。他のソフトが使いづらくなるため、作業が終わったら無効にしています。タスクトレイから有効/無効を切り替えられます。
現在は、作業方法を変えました。歌詞を印刷してその紙に開始秒を記入し、まとめてclacに入力しています。



2025/04/11

ブラジルゴスペルの対訳紹介

ブラジルのゴスペルの日本語対訳の作成が趣味になり、対訳を紹介するブログを作成しました。よかったら見て下さい。自分はクリスチャンではないですが、アーティスト、観客が真剣に信仰している様子に心がうたれました。

ブラジルゴスペルの対訳紹介

2025/03/30

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