2014/12/06

自分と自己

「自分」という言葉は、「自ら」を「分ける」と書く。何から分けるのか。全体からだ。自らを全体から区別する感覚・自我の感覚。この感覚を起点として、エゴや孤独感が出てくる。 キリスト教のいう原罪とはこの自意識の発生を指しているように思う。知恵の実を食べることで人に自意識が生じた。その時、裸では恥ずかしいと感じ、イチジクの葉をつけた。動物や赤ちゃんに自意識はあるのか?あるとしても、大人の人間のようなエゴは無いし、恥ずかしいという気持ちもないだろう。
感情・思考は自分ではない。感情・思考が映し出されるスクリーンとしての意識が自分だ。こう言う場合の自分は、「自ら」を全体から「分けた」自分、自我の感覚から出てくる自分ではない。自我の感覚より先にある意識自体としての自分なのだ。だから、自分という言葉はふさわしくない。自己と呼んだほうがふさわしい。
「君子己れなき、己れなければ、己れならざるものなし」と言う時、「君子己なき」の己が自分に当たる。「己れならざるものなし」の己は自己に当たる。
自己は、自我の感覚より先にあるので、全体との一体感を感じる場でもある。