意識を意識する喜びを感じる。そういう自分なりの、信仰以前の実感でも、救われている。
しかし、例えばキリスト教徒で、神はイエスキリストしかいない、という人はその信仰で救われている。その人に対して、他宗教にも寛容になったほうがいいと言っても、逆に相対主義を押し付けることになる。
信仰している人が、「自分にはこの宗教しかない」と思うことは自然なこと。しかし、それと同時に他宗教で救われている人がいることを認めることはできる。他宗教で救われている人に、その宗教は価値がないというのはよくない。他宗教への寛容さとは、他宗教を信じている人への寛容さ。
2015/06/06
個人的エゴと集団的エゴ
昔は、個人・家族レベルより広い範囲での共同体に属することでアイデンティティを得ていた。その共同体は時代によってかわるが、国家・教会・村・会社などだ。まず共同体があって、その共同体に属する自分があるという感覚だ。
アイデンティティの在り方によって、関心事・悩み、エゴの在り方も異なってくる。
共同体的なアイデンティティがなければ個人・家族レベルでのみ生きている状態だ。その場合は、関心事・悩みも自分・家族のことに限られる。また自分・家族さえ良ければいいという個人・家族的エゴが出てくる。
集団にアイデンティティが置かれる場合、個人・家族的なエゴは相対的に弱まり、関心事・悩みも個人・家族の範囲から集団的な関心事へ重心が移る。しかし替わりに自分が属する集団さえ良ければいいという集団的エゴが出てくる。
(細かく言えば、集団にアイデンティティが置かれる場合、それが個人的・家族的エゴと強く結びついている場合と、個人的・家族的エゴより集団的エゴが優先される場合があるだろう。前者の例として、村八分にされると自分・家族の立場がわるくなるため村共同体に属していなければならないというケース。後者の例は、国家にアイデンティティを置き、戦時に国家を救うためには個人の命も惜しくないというようなケース。)
今の日本では、一般的な人はそのような集団的アイデンティティではなく、個人・家族レベルでしか生きていないだろう。関心事・悩みも個人・家族の範囲の事柄に関したものしか持たない。しかし、国家レベルにアイデンティティを置く/置きたいという傾向も出てきている。これには、個人・家族レベルのエゴを超えたいという欲求もあるのではないか。
例えば太平洋戦争中は、まず国家があり、その次に国家に属する自分があるという感覚があっただろう。国家という集団にアイデンティティを置いていた。戦争中に、本気で「国のために死にたい」と思っていた人がいたかもしれない。それは望ましくない状態ではあるが、個人的なエゴ・悩みを超えて気が楽になるという面もあったと思う。しかしそれは、個人的なエゴが集団的エゴと置き替わっただけである。
全体主義でいう「全体」とは地球全体・人類全体ではない。自分が属する国、宗教などの組織が「全体」であって、別の組織は全体には含まれず敵となる。全体主義の全体が自分も含めた本当の全体であれば、いい理想ではないかと思う。
スピリチュアルな教えでは、エゴを超えることが説かれる。キリスト教でいえば、神に全てをゆだねることで個人的なエゴ・悩みを超える。それは個人的なエゴを超えるという意味では、集団的エゴと似ているが、個人的・集団的にかかわらずエゴそのものを超えようとする点で異なっている。
アイデンティティの在り方によって、関心事・悩み、エゴの在り方も異なってくる。
共同体的なアイデンティティがなければ個人・家族レベルでのみ生きている状態だ。その場合は、関心事・悩みも自分・家族のことに限られる。また自分・家族さえ良ければいいという個人・家族的エゴが出てくる。
集団にアイデンティティが置かれる場合、個人・家族的なエゴは相対的に弱まり、関心事・悩みも個人・家族の範囲から集団的な関心事へ重心が移る。しかし替わりに自分が属する集団さえ良ければいいという集団的エゴが出てくる。
(細かく言えば、集団にアイデンティティが置かれる場合、それが個人的・家族的エゴと強く結びついている場合と、個人的・家族的エゴより集団的エゴが優先される場合があるだろう。前者の例として、村八分にされると自分・家族の立場がわるくなるため村共同体に属していなければならないというケース。後者の例は、国家にアイデンティティを置き、戦時に国家を救うためには個人の命も惜しくないというようなケース。)
今の日本では、一般的な人はそのような集団的アイデンティティではなく、個人・家族レベルでしか生きていないだろう。関心事・悩みも個人・家族の範囲の事柄に関したものしか持たない。しかし、国家レベルにアイデンティティを置く/置きたいという傾向も出てきている。これには、個人・家族レベルのエゴを超えたいという欲求もあるのではないか。
例えば太平洋戦争中は、まず国家があり、その次に国家に属する自分があるという感覚があっただろう。国家という集団にアイデンティティを置いていた。戦争中に、本気で「国のために死にたい」と思っていた人がいたかもしれない。それは望ましくない状態ではあるが、個人的なエゴ・悩みを超えて気が楽になるという面もあったと思う。しかしそれは、個人的なエゴが集団的エゴと置き替わっただけである。
全体主義でいう「全体」とは地球全体・人類全体ではない。自分が属する国、宗教などの組織が「全体」であって、別の組織は全体には含まれず敵となる。全体主義の全体が自分も含めた本当の全体であれば、いい理想ではないかと思う。
スピリチュアルな教えでは、エゴを超えることが説かれる。キリスト教でいえば、神に全てをゆだねることで個人的なエゴ・悩みを超える。それは個人的なエゴを超えるという意味では、集団的エゴと似ているが、個人的・集団的にかかわらずエゴそのものを超えようとする点で異なっている。
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