2025/07/21

嫌いな人の幸福を祈る

 人を嫌うとき、自分のエゴが働いている。嫌いな人の幸福を祈るのは抵抗がある。エゴが抵抗がするからだ。エゴが抵抗することを敢えてする。それにより、今までのエゴの働きのパターンが変わる。
祈るとき、祈りの対象の人を大切に思っている。大切に思わなければ祈れないからだ。なので、祈っている間は嫌いな人のことを大切に思っている。
マタイ5:44
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

2025/07/18

エゴと対人関係

人はエゴを持っている。それは自分を大切にする気持ち。人と人とが会うと、互いに自分を大切に思っているため、利害が相反する可能性がある。これが対人関係に緊張をもたらす。その可能性が現実になれば争いになる。
以上は当たり前のことだが、それを意識して観察すると、対人関係の緊張を部分的に乗り越えることができる。

2025/07/12

人のために祈る

自分のことばかり考えていれば、閉塞感を感じる。孤独になる。その状態から抜け出すために、人のために祈る。祈るのはいつでも簡単にできる。


エゴの成り立ち

全ての生き物は、生存本能=死を避ける本能を持っている。
人は周りの環境から自分と自分以外を分けて、「自分」として特別に意識する。これが自意識。
自意識と生存本能が結びつく。すると自分を守りたいと思う。これがエゴの元。自分だけが大切となると、わがままとなる。


2025/07/07

ファリサイ派のアナロジーと行動規範

 ファリサイ派は戒律を守る。それは最初は神への信頼と愛を伴っていた。時間が経つに従って、戒律を守ることだけが大切になり、愛は二の次になった。イエスはそこを批判して、戒律を守ることより愛を優先することを説いた。その批判のアナロジーで、様々な行動規範について考えることができる。

挨拶

挨拶するという礼儀も行動規範。パートの仕事でお客さんに挨拶する。その時、義務的な挨拶になってしまう。目があって、挨拶しないと自分が失礼に思われる。挨拶しないとクレームを入れられる。など、まず自分のことを考えて挨拶している。そこにも自分が大切という自己愛はある。しかし相手に対する隣人愛が挨拶に込められていれば、素晴らしい挨拶になるだろう。

世間教

世間教とは、世間並みに生きなければならないという行動規範を持つ宗教。
例えば、いい学校に入っていい会社に行くのが一番いいと思って子供にそういう生き方を押し付ける親がいる。その行いは、子どもを大切に思う気持ちから出てくる。元には子どもに対する愛がある。しかし、生きていくうちに行動規範を守らせることが愛より優先されてしまう場合もある。

子供を叱っている親

道を歩いていて子供を叱っている親をよく見る。世間の行動規範を子供に教えることが、子供に対する愛より優先しているような印象を受ける時がある。