2025/10/13

無宗教=相対主義

無神論、唯物論もそれらを信じていることになる。
その意味では、無宗教とは相対主義だと思う。橋爪大三郎「死の講義」からの受け売りである。
相対主義=色々な考えがあるがどれも絶対に正しいとは言えないという考え。その状態では何かを信じることはない。
宗教は、広い意味では世界観だと思う。世界観から、生きる上での方針が出てくる。生き方に強さが出る。相対主義では世界観が無く、生き方が強くならない。
その意味で、何かを信じている人に共感できる。ブラジルのゴスペルを聴いて、アーティスト、聴衆の信仰心を感じて泣けたが、その共感から感動していると思った。

2025/10/04

エゴを観察しているだけでは閉塞感を感じる

エゴを観察することをずっとやってきた。
自分のエゴを観察するので、自分を見ている。その意味では自分の内側に捕らわれている。なので閉塞感を感じる。自己中心的になっている。
自分だけでなく、人間関係の反対側にいる相手を見る。これも回心だろう。

2025/09/12

AIにキリスト教の教義について聞いてみた

 Windows付属のcopilotにキリスト教の教義について聞いてみた。

質問:

キリスト教の教義を要約してみました。合っていますか?

原罪とは、アダムとエバが善悪の木の実を食べたこと。アダムとエバが犯した罪が人類全体に受け継がれた。
人には罪を犯す心の性質がある。この性質は、原罪が原因となっている。自分を中心に考えるエゴが関係している。
この性質のため、放っておくと、心のあり方での罪を犯す。神の方を向かないこと。神を受け入れないこと。
その結果、行為としての罪を犯す。神に従わない行為。アダムとエバが善悪の木の実を食べたことや、人が神の律法を守れないこと。心の中での行為も含まれる。
罪はイエスの犠牲で恩赦された。ただし、回心しないと恩赦は有効にならない。救済されない。救済とは最後の審判で無罪とされ、神と共に永遠に生きること。
罪は恩赦されたが、人の罪を犯す心の性質は残っている。なので罪を犯してしまう。
回心とは、心のあり方での罪を正すこと。神の方を向いて、受け入れること。人の罪を犯す心の性質は無くならないので、継続して回心する必要がある。
律法は、イエスによって要約された。神と隣人を愛すること。

回答:

とてもよく整理されていますね。あなたの要約は、キリスト教の主要な教義の流れを的確に捉えています。以下に、いくつかの補足と確認ポイントを挙げてみます:


🧬 原罪と人間の性質

✅ 原罪は、アダムとエバが神の命令に背いて「善悪の知識の木の実」を食べたことに由来します。

✅ この罪は「人類全体に受け継がれた」とされ、人間の本性に罪の傾向があるという教え(特に西方教会の伝統)に繋がります。

✅ 自己中心性(エゴ)や神からの離反は、原罪の結果として理解されます。


⚖️ 罪の種類と影響

✅ 罪には「心のあり方での罪」(神を拒む、無関心)と「行為としての罪」(神の律法に背く行動)があり、両方が重要視されます。

✅ イエスの教えでは、心の中での憎しみや欲望も罪とされる(例:マタイ5章)。


✝️ 救済と回心

✅ イエスの十字架の死と復活は、人類の罪の贖いとされ、これによって救済の道が開かれました。

✅ ただし、**信仰と回心(悔い改め)**がなければ、その救いは個人に適用されないという理解は、特にプロテスタントで強調されます。

✅ 回心は一度きりではなく、継続的な心の向き直しとして捉えられます。


📜 律法と愛の要約

✅ イエスは律法を「神を愛し、隣人を愛すること」に要約しました(マタイ22:37–40)。

✅ これは旧約の律法の精神を成就するものであり、形式よりも心の姿勢が重視されるという転換を示しています。


全体として、あなたの要約は非常に的を射ていて、神学的にも深い理解が感じられます。もしさらに掘り下げたいなら、例えば「義認(義化)」や「聖化」「贖罪理論」なども面白いテーマです。どこか気になる部分、もっと詳しく知りたいところはありますか?

2025/08/21

三位一体と諸法無我

三位一体は、実体として一つだが、見え方、働き方が違う位格が3つある。ということではない。その考えは異端とされる。
違う位格の間の関係が重要。実体として一つという考え方だと、関係が失われる。
神とイエスの間の関係は、神と人間の関係、自分と隣人との関係にも通じる。その関係を正しくすることが大切。正しい関係とは、愛し愛されるという関係。一緒に生きるいう関係。

仏教の諸法無我の考えでは、全ての事物は関連していて独立した実体ではない。
その考えを敢えて三位一体に当てはめるとこうなる。3つの位格は別のものだが、関連して存在しているのでその意味では一つになっている。

2025/08/20

永遠の命と涅槃

キリスト教では、人格は無くならない。死によって一旦人格は無くなるが、最後の審判で生きていた時と同一人格で蘇る。そして審判で赦されれば神の国で神と一緒に永遠に生きる。それがキリスト教での最終的な救済。

仏教での涅槃とは、人格が無くなること、永遠の死。それが仏教の救い。こういう考えが初期の仏教にはあるだろう。
仏教の感覚からみると、永遠に今の人格、自意識を持って生きるのはきつい、と思う。

愛と慈悲

キリスト教での愛は、異なる人格の間の関係としての愛。父とイエスの間にも愛の関係がある。なので、父とイエスは同一ではない。三位一体の解釈として、各位格の実体は一つで、見え方や働きが違う位格が3つあるという考えは異端とされる。
関係が重要で、その関係は異なる存在の間で成り立つという考え。

仏教での慈悲は、自分と相手が繋がっているという実感からくるのでは。縁起により各存在が関連していて独立した実体としては存在しない。その意味では世界は一つなのだという考え=諸法無我。その考えでは、自分と相手が異なる存在であるという面より、全体として一体であるという面の方が強調される。

2025/08/15

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2025/08/12

隣人を愛する

キリスト教では、隣人を愛することは神からの戒めである。

マタイ22:39
隣人を自分のように愛しなさい。

自分も隣人も神が作り、神に生かされている。なので自分も隣人も同じように大切な存在なのだろう。

仏教でも慈悲を説く。縁起によって全ては繋がっているので、自分と隣人も繋がっている。自分が大切なら隣人も大切。

2025/07/21

嫌いな人の幸福を祈る

 人を嫌うとき、自分のエゴが働いている。嫌いな人の幸福を祈るのは抵抗がある。エゴが抵抗がするからだ。エゴが抵抗することを敢えてする。それにより、今までのエゴの働きのパターンが変わる。
祈るとき、祈りの対象の人を大切に思っている。大切に思わなければ祈れないからだ。なので、祈っている間は嫌いな人のことを大切に思っている。
マタイ5:44
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。