神中心だと、自分が神の奴隷になり、自由がなくなるのではと思うかも。しかしそうはならない。閉塞感=不自由さの感覚は、自己中心の状態から来るからだ。
瞑想・その他
2025/11/25
他力中心に徹することからくる自由
神中心だと、自分が神の奴隷になり、自由がなくなるのではと思うかも。しかしそうはならない。閉塞感=不自由さの感覚は、自己中心の状態から来るからだ。
2025/11/21
素直な気持ちは自分では変えられない
2025/11/16
神=愛
人はみんな、愛し、愛されたいと思っているのではないか。それは嬉しい、楽しい。そこに喜びがある。しかし、世間の人間関係は愛に溢れてはいない。
ヨハネの手紙1 4:16神=愛とすると、的外れとは、愛を大切だと思わないこと。
神は愛です
そうなってしまう理由の一つは、自分や家族だけが大切というエゴイスティックな自己愛だろう。愛し、愛されるのは他者との関係だ。自分だけが大切となると、他者との関係が無くなる。人間は放っておくと、エゴイスティックな自己愛に陥ってしまう。そこから回心して、他者との愛に戻ることが必要なのだろう。
2025/11/12
体の他者性
2025/10/13
無宗教=相対主義
宗教は、広い意味では世界観だと思う。世界観から、生きる上での方針が出てくる。生き方に強さが出る。相対主義では自分の世界観が無く、生き方が強くならない。
その意味で、何かを信じている人に共感できる。ブラジルのゴスペルを聴いて、アーティスト、聴衆の信仰心を感じて泣けたが、その共感から感動していると思った。
2025/10/04
エゴを観察しているだけでは閉塞感を感じる
自分だけでなく、人間関係の反対側にいる相手を見る。これも回心だろう。
2025/09/12
AIにキリスト教の教義について聞いてみた
Windows付属のcopilotにキリスト教の教義について聞いてみた。
質問:
キリスト教の教義を要約してみました。合っていますか?
人には罪を犯す心の性質がある。この性質は、原罪が原因となっている。自分を中心に考えるエゴが関係している。
この性質のため、放っておくと、心のあり方での罪を犯す。神の方を向かないこと。神を受け入れないこと。
その結果、行為としての罪を犯す。神に従わない行為。アダムとエバが善悪の木の実を食べたことや、人が神の律法を守れないこと。心の中での行為も含まれる。
罪はイエスの犠牲で恩赦された。ただし、回心しないと恩赦は有効にならない。救済されない。救済とは最後の審判で無罪とされ、神と共に永遠に生きること。
罪は恩赦されたが、人の罪を犯す心の性質は残っている。なので罪を犯してしまう。
回心とは、心のあり方での罪を正すこと。神の方を向いて、受け入れること。人の罪を犯す心の性質は無くならないので、継続して回心する必要がある。
律法は、イエスによって要約された。神と隣人を愛すること。
回答:
とてもよく整理されていますね。あなたの要約は、キリスト教の主要な教義の流れを的確に捉えています。以下に、いくつかの補足と確認ポイントを挙げてみます:
🧬 原罪と人間の性質
• ✅ 原罪は、アダムとエバが神の命令に背いて「善悪の知識の木の実」を食べたことに由来します。
• ✅ この罪は「人類全体に受け継がれた」とされ、人間の本性に罪の傾向があるという教え(特に西方教会の伝統)に繋がります。
• ✅ 自己中心性(エゴ)や神からの離反は、原罪の結果として理解されます。
⚖️ 罪の種類と影響
• ✅ 罪には「心のあり方での罪」(神を拒む、無関心)と「行為としての罪」(神の律法に背く行動)があり、両方が重要視されます。
• ✅ イエスの教えでは、心の中での憎しみや欲望も罪とされる(例:マタイ5章)。
✝️ 救済と回心
• ✅ イエスの十字架の死と復活は、人類の罪の贖いとされ、これによって救済の道が開かれました。
• ✅ ただし、**信仰と回心(悔い改め)**がなければ、その救いは個人に適用されないという理解は、特にプロテスタントで強調されます。
• ✅ 回心は一度きりではなく、継続的な心の向き直しとして捉えられます。
📜 律法と愛の要約
• ✅ イエスは律法を「神を愛し、隣人を愛すること」に要約しました(マタイ22:37–40)。
• ✅ これは旧約の律法の精神を成就するものであり、形式よりも心の姿勢が重視されるという転換を示しています。
全体として、あなたの要約は非常に的を射ていて、神学的にも深い理解が感じられます。もしさらに掘り下げたいなら、例えば「義認(義化)」や「聖化」「贖罪理論」なども面白いテーマです。どこか気になる部分、もっと詳しく知りたいところはありますか?
2025/08/21
三位一体と諸法無我
違う位格の間の関係が重要。実体として一つという考え方だと、関係が失われる。
神とイエスの間の関係は、神と人間の関係、自分と隣人との関係にも通じる。その関係を正しくすることが大切。正しい関係とは、愛し愛されるという関係。一緒に生きるいう関係。
その考えを敢えて三位一体に当てはめるとこうなる。3つの位格は別のものだが、関連して存在しているのでその意味では一つになっている。
2025/08/20
愛と慈悲
関係が重要で、その関係は異なる存在の間で成り立つという考え。
仏教での慈悲は、自分と相手が繋がっているという実感からくるのでは。縁起により各存在が関連していて独立した実体としては存在しない。その意味では世界は一つなのだという考え=諸法無我。その考えでは、自分と相手が異なる存在であるという面より、全体として一体であるという面の方が強調される。