2025/04/27

観想によりエゴを弱める

キリスト教で悔い改めという言葉がある。罪を悔い改める。これについてこのような説明をしている牧師さんがいた。 
自分が生きているという状態から、キリストが自分を生きているという生き方に変えること。 車の運転の比喩で説明していた。車を人生とすると、自分が車を運転している状態から、キリストに運転を変わってもらい、自分は助手席に座る状態に変えること。 これはいい比喩だと思った。
ガラテヤ2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。 
いきなりその状態に変えることはできなくても、「もしキリストが自分を生きていたら、この状況でどう感じ、考え、行動するか?」と想像することはできる。それを繰り返せば、板についてくるかもしれない。
クリスチャンなら、こう神に祈るかもしれない。「あなただったら、この状況でどう感じ、考え、行動しますか?それを教えてください」「私と一緒に生きてください。この状況を私に代わって生きてください。」と。そして、悔い改めがキリストと一緒に生きることであるなら、神の愛を喜ぶことでもある。
仏教でも、仏と自分が一体となるような観想がある。しかし、「絶対者に自分の代わりに人生を生きてもらう」という観想は、神であり人間でもあるイエスを信仰するキリスト教ならではのものだろう。

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